西洋から見た「本音と建前」

西洋にも本音と建前という状況はある。例をあげて説明した後、このような便利な嘘と西洋人の関係を説明している。
「それは私達を悩まし続ける。集団としては本当の感情を表わす反応より、このような安定性を保持するためのしきたりを好むがそれが終るとこのしきたりを偽善的で不要なものと罵しる」

http://www.bbc.co.uk/dna/h2g2/A571565

以下Prezの記事から面白いところを抽出

日本の解決策

日本語ではこの二重の社会的現実が二つの反対の言葉によって明示的に認められている:

  • Tatemae: 正式かつ公式な社会的に要求される現実
  • Honne: 社会の位置付けと無関係な非公式な個人的な現実

日本語にこの二語が存在するという事実は大変興味深い現象だ。部外者から見ると語彙によって「何気ない嘘」について正直な社会ということになる。しかし、日本ではどちらかというと正直モード(mode of honesty)が二つあると認めることになる。

西洋風に育った人にとってはこれは奇妙な考え方だ。 … 西洋の科学と合理主義のもたらした幻滅以来、西洋の考え方では二つの現実が同じレベルで存在することが許されない。東洋哲学では科学であれ宗教であれ現実の説明が複数存在する。これは日々の社会生活でも同じだ。

日本人には本音がより現実に近いのではなく、当人の考えに忠実なだなのだ。しかし、日々の生活で見えるのは建前で、これも現実にとって本音と同じぐらい関連している。人の考えと行動は必ずしも同じではない。行動の方が重要なときもある。

それって嘘なんじゃないの?

そうであり、そうでない面もある。個人の感情より社会の秩序を優先する嘘の訳は"Little white lies"となるが、これ本音と建前とは全く違う。(「小さな嘘」という感じだろうか) 我々の清教徒のモラルでは何も言わない(say little)嘘の場合だけ(罪のない?)白い嘘とすることが許される。しかし、建前は小さくもないし嘘でもない。建前とは特定の状況における存在のしかたで、個人的で面倒で不要なものをキャンセルし、調和を優先するありかただ。

嘘について正直

日本語で社会の二つの現実の違いが明示的にされていのということは、日本人は「正直な嘘吐き」ということになる。 西洋人よりも正直なのかもしれない。あるいは誠意を重んじるあまり、不誠意なことを明白にすることによって暗黙の謝罪をしているともみれる。



確かに一神教の文化っていうのは嘘を許さない。神は全てをお見通しで一人しかいないからね。この違いは宗教とか哲学だけじゃなくて、個人的レベルでも感じる。でも結局人間は建前が必要だから無理が生じてくる。建前の必要性を認めて制度化した日本(東洋全般?) はある意味賢いと思う。manga,otaku,hikikomoriように"honne and tatemae"を英語圏に導入するのも悪くない。